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ディベート好きは損をする?

 ディベート好きが最近ますます増えている。 

 前々から「朝まで生テレビ」なんて討論番組や「たけしのTVタックル」、はては少年少女までが「真剣10代しゃべり場」なる番組にて、様々なテーマで、お互いの意見をぶつけ合っている。
 そんなもんだから、居酒屋なんかに行っても、あっちの席でも討論、こっちの席でも討論と、なんだか落ち着かない。
 
 このブログを日々読んでくださっている方なら、うすうす感じてらっしゃるかもしれませんが、私もディベート好き。ただし「でした」。
 あくまで過去形です。
 最近は、ディベートらしいディベートしてません。
 相手から持ちかけられてても「へいへい、おっしゃる通りでございます。私が申すことは何もございません」ってなもんで、口論しない。
 おかげで、以前よりも生きるのが楽だ。

 私は元来理屈っぽく、小学生の頃から、そりゃーまあ生徒会なんかに属して、生徒会なんかの会議で理屈こねてたわけですよ。
 同年代の学生はもちろん、教師相手にもディベートして、論破することに生きがいを感じていたわけですな。(教師は十中八九ディベート下手です。返答が杓子定規で、面白みに欠け、柔軟性にも欠けてるので、突っ込みどころ満載です)
 そうやって自分より年上の人や、同年代でも成績がいい人をディベートで打ち負かすことが快感だったのです。
 しかし、口ばっか達者だったので嫌煙されましたね。
 なのに、当の本人は「ふん、燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」なんて、孤高ぶってるんだから、性質が悪い。(えぇ、偏屈な少年でしたよ)
 
 でも、大学行って面食らいました。私が行った大学は「日本大学芸術学部」なんてヤクザな学校で、五教科はお馬鹿ちゃんなくせして、自分の専門分野には学者顔負けの知識を持ったやつらの集まりなんですよ。
 そんなマニアックな人たちに囲まれちゃ、私は燕雀どころか、ひよこちゃんなわけで、てんで太刀打ちできない。
 ディベートなんかしようものなら、やれサルトル曰くだの、ニーチェ曰くだのとほざきだす。
 さすがの私も、歴史上の偉人の知識を兼ね備えたマニア連中にはかなう術もなく、ただ「はぁ」「へぇ」とうなずくだけだった。
 
 でもね。それでなんだよって事なんですよ。 
 彼らが、偉そうに語る口上は、所詮ニーチェだのの言葉を代弁しているだけ。彼らの言葉ではないんですね。
 私は、目の前の学友ではなくニーチェの亡霊と話しているわけですよ。
 まあ、ニーチェについての知識は得れても、目の前の学友から得るものは何もないわけです。 

 この日芸ってのがホンと変人の集まりで、朝から晩まで学食や部室なんかで芸術論や人生論で口角泡を飛ばす連中がいたり、授業には出ずに、かってにアトリエに居ついて一日中絵ばっかり描いてるやつがいたりと、授業に出る人数より、学校内で好き勝手やってる人間の人数のほうが多いという奇妙なキャンパスライフが営まれていました。 
 口角泡を飛ばす連中に打ちのめされた私は、空き教室で舞台の練習にはげむ「ホワイトケチャップ」なる劇団に入り浸るようになりました。 
 驚いたことには、この劇団、全員が新一年生だったのです。 
 普通は、先輩の劇団などに入って、劇団の運営などを勉強していくものだが、彼らは入学していきなり気の合った仲間で劇団を立ち上げ、劇場の手配から広告宣伝、舞台装置や小道具類まで、すべて自分らでやりこなしていた。
 こうなると、もう純粋に「すげえな」と尊敬できちゃうのである。

 んで、たまに口角泡飛ばす連中のとこへ顔出してみると、彼らは相変わらず「芸術はカタルシス(自己浄化作用)だよ」だの「芸術なんて所詮、自慰行為だよ」だの「たんなる自慰じゃ感動は生まれない。シンパシィ(共感)があるから大衆に受け入れられるんだよ」だのやっている。
 このとき、悟ったのです。
 「あ、コイツら何も生み出さないな」ってね。

 芸術というのは自己表現であり、それは何らかの形として表さなければ他者に伝わることはないのです。 
 どんなにヘタクソでも、作品ひとつ作り上げれば立派な表現者なわけです。
 逆に、どんなにすぐれた知識や考えを持っていたとしても、それを形にして表現しなければ、表現者とはいえないわけです。
 
 口角泡飛ばす連中だって、表現者になりたくて日芸に来たのだろうに、いつの間にか表現者ではなく、評論家に成り果ててしまっていたのですね。

 この頃から、私はディベートばかりする連中から遠ざかり、「なにかをやってる連中」とつるむようになる。
 これが、実にみのりある付き合いでした。
 「何かやってる連中」ってのは「何かやってるやつ」とじゃないと受け入れないんです。「口だけのヤツ」や、「何もやってないやつ」は受け入れられないんですよ。
 だから、自分も何かをやらなくてはならない。

 そうして私は、「百の口論より一の実行の方が有益である」ことを知った。
 「何かをやっているやつ」には、同じく「何かをやってるやつ」や「何かをやりたいやつ」といった、人生を積極的に生きる仲間が集まってくる。
 そうすることで、自分の人生自体も前向きになる。
 また、そんなやつには友達が多くできる。
 私は、ディベートをやめてから、ぐっと友人の数が増えた。

 世のディベート好きの方、損してませんか? 

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  • 2016.11.03 Thursday
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  • 13:09
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コメント
楽しく読ませていただきました。
が、その日芸の方々(ニーチェなどを語る方々)がされていたことは、「ディベート」なのでしょうか?
うんちくを語っていただけではないですかね?
行動に価値を置いているのは、私も同じですが、人の意見を聞くのは、行動する人にも必要なのではないかと感じています。
違う立場の人と議論することは、別にその意見に屈しなくても、何かを得るきっかけになることもあると思います。少なくとも、私はそういうことがよくあります。
  • ひなこ
  • 2016/09/12 11:01 PM
コメントありがとうございます☆

ちょっと文章が言葉足らずで申し訳ないです。
たとえば私がなにか意見を言った時に「それはニーチェによればな」と他人の意見を持ち出してディベートしてくるんですよ。

これは、まったくもって意味がないと思っています。

百歩譲って、ニーチェなる先人の知恵を持ち出してもいいとして、そこに自分個人の意見がなければ、そこにその人との真のコミュニケーションは生まれないと思うんです。

ようするに「自分の言葉で語れ」ですね。

もちろん、自分の意見なんて、もともとはどこかから借りてきた知識であることは承知してます。

でも、自分なりに解釈して、自分の言葉に変換しなければ考えてないのと一緒だと思ってます。

ひなこ様の人の意見を聞く必要性は本当にそうだと思って、今の私は議論せずに、黙って相手の話を聞くんです。

もちろん、分からない点やツッコミどころは言いますが、それは言い負かそうじゃなくて、もっと知りたいからつっこみます。

そうやって、相手に気持ちよく話させたほうが、相手も重要な情報を気持ちよくしゃべってくれるものなのです(笑)
  • 坂口
  • 2016/11/03 5:21 PM
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